251124 時間の感覚

新田辺駅に着いたら、たくさんの人が降りて、私は驚いた。ドアの側に立って本を読む私を除いて、立っていた人も、座っていた人も、みんな荷物を整えて新田辺駅の白く無味なホームへ出ていく。果たして私は、広々とした席に座れることになった。新田辺から大学までの区間、すなわち全体の約半分の通学時間は座れるということになる。少し時間をずらすだけで、(直通電車ではなくとも、)半分は快適に過ごせるのだとしたら、たまの微遅刻も悪くない。なんて思って、ガラガラの座席で本を読んでいたら、「終点です、お降りください」と、駅員が来た。どうりでおかしいと思った、私は乗る電車を間違えたのだ。急行に乗るはずが、新田辺行き各停に乗ってしまったに違いない。少なくとも今は、駅員に従って外へ出なくては。と思い、取り急ぎ本を閉じて、鞄を前に抱えてホームへ出た。しかし一度出てみると、ホームは新田辺駅にしては極端に大きかった。そして、5秒後に気がついたことに、そこは間違いなく京都駅だった。
ここ数日、時間の感覚がかなりおかしくなっていることは承知していて、大回りな時間の使い方を好意的に捉えてはいた。とは言っても、こうまでくると、現実をどう認識すべきかという問題について〈実用における必要性において〉考えなければいけない。そうでなくては、自分の経験したことがミスなのか発作なのか奇跡なのかわからない。他人群とも過去の自分群とも似つかぬようなこの、〈物事はなんでも捉えようによる〉の範疇を軽く超えた脳のテンションを、〈捉えの用〉によってオペレーションしなきゃダメだ。仮にでなくても私は異端者なのだから、世界を設定しなくては。